日常 造形論

彫刻をつくる,ふれる,みる,わかる 

              

林 耕史

 丸太原木からチェンソーを用いて挽く,切る,抉ることで,新たな形と出会います。鑿(のみ)を入れ,磨き,形を整えます。チェンソーから感じる木の反応や,鑿と木槌を介して伝わる感触が,形へと導いてくれます。僕にとって「つくる」とは,さわりながら,撫でながら,つつきながら,手で「みる」ことと同義です。彫刻は,「つくる」と「みる」の間に,「ふれる」が位置付いています。それは「手でみる」ということだと思うのです。

 日常生活では,「みる」ことで「わかる」ことが多くあります。他方,「ふれる」ことの必要性はなかなか浮上してきません。生活に必要な情報は,「みる」ことで「わかる」からなのでしょう。もちろんスマートフォンに「ふれる」は,いつでも行われていると思います。でも,これは指示ボタンを操作することであり,「ふれる」と「わかる」が結びついているということではなさそうです。紙の本のページをめくる時の指の感触は,電子ブックのページをめくるような疑似画面の操作とは全く違います。

 先日の強風で,あっという間に庭は落ち葉で覆われました。その状況は,こうして原稿を書きながらでも外を眺めれば「わかる」のです。しかし,外に出て庭を歩いてみると,思いの外,既に落ち葉が厚い重なりをつくっていることが足下から伝わってきます。手で触れて押さえると,堅いけれど,ふくよかであることを落ち葉が伝えてくれます。落ち葉と,その下で急に暗くなって戸惑っているかのような,まだ弾力がある緑の草,湿った土,それらが奏でる優しい音も耳から入ってきます。その時,「ああ,これが秋だ…」と,確かに「わかる」のでした。「ふれる」「あるく」「きく」など,身体を通した「わかる」時間がどうしても必要なのだと改めて思います。幼い子どもは,自分の身の回りの事象・世界を,何でもさわって手で感じ取り,理解していきますね。「ふれる」と「わかる」は直結しているのだと思います。

子どものような手で,これからも世界を「わかる」ことができればいいなと,僕は思っています。

林耕史 中之条ビエンナーレ2023作品 『月が眠る山2023-Ⅵ』 (群馬:中之条町) 

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