造形論 過去の大会

45回大会(夏研)提案授業の振り返り

「2023年夏研・椎橋実践によせて」


大泉義一(早稲田大学)

2023年8月3日の夏の研修大会では,全体会の授業提案として,運営委員である椎橋げんき氏が,会場校である東京学芸大学附属竹早小学校1年生に対して,造形遊びの授業実践を公開した。
その授業は,「手触りから?音から?形の変化から?子どもたちの中から生まれる『やってみたい』に向き合う授業を提案」するものであった。大会テーマは『サイコー再考“たのしい図工”』である。
子どもに対する全国調査で常に「好きな教科」第1・2位を争う図工であるが,その「楽しさ」について参加者のみなさんと授業の事実を通して再考すること意図した訳である。さらにこの試みでは,図工の授業の「楽しさ」というものを,教師・授業者の指導的側面や題材の内容面からではなく,子どもの視点から捉えようとするものであった。

実際の授業では,椎橋氏が目指したように,思い思いに布に触れ,その際に起こる様々な変化や感覚を基に,「やってみたい」ことを見つけようとする子どもたちの姿が見られた。
…一人で布にくるまる子,友人と一緒に引っ張り合う子,布を引きずって会場であるランチルームを走り回る子…など思い思いに布と関わっていた。なかには友人とうまく関われなかったり,力加減の違いからトラブルになったりする場面も見られた。

さて,この授業提案に対して,参加者の皆さんからは様々なご意見をいただいた。当日の全体会で,すでに議論されたものもあるが,大会アンケートにも多くのご意見や感想や質問が寄せられたので,この機会を借りて,みなさんと共有したいと思う。
とりわけ,本授業に対する「懸念」や「疑問」をいくつか取り上げ,筆者の見解を述べることを通じて,「子どもの視点から図工の『楽しさ』を捉えること」について,みなさんと考えてみたい。(長文になります,すみません…)


参観者

「学びをどう見取るか、そしてそれを児童に返すか(また、返さず自己の中で醸成させるか)という具体的なところまで議論できたら、また議論が深まると感じました。」

ご指摘の通りと思う。今回の授業提案は,多くの「研究授業」で「指導案検討」と称して事前の準備に時間が割かれるのに対し,事後の協議に重きを置くことを意図した。だとするならば,その時間をもっと確保すべきであったと思う。参観者の皆さんが「子どもをどう捉えたか?」「自分ならどうするか?」を十分に出し合うことで,『楽しい図工』の『サイコー』の『再考』がなされたのではなかろうか。
しかしながら,今こうしてブログ上とは言え,協議の「続き」を行っていることでご容赦いただければと思う(筆者は,授業研究の協議会を“拡張された授業”であると捉えている)。


参観者

「やはり最後にはただの布に触れて何を感じたか、どうしようと考えたかなど子どもたちの率直な感想を興奮冷めやらぬ中で聴きたかったです。」

これもごもっともなご意見である。子どもの側から図工の「楽しさ」を捉えようとするならば,授業の後に子どもたちにインタビューすべきであった。これも上述した研修会の時間の持ち方との関係もあるが,今後の協議のあり方として受け止めたいと思う。


参観者

「小学1年生の授業としては、どんなねらいでやっているのか、授業の流れはどんな風なのか等、指導案的なものが欲しかった。幼児の表現活動としては良いのだと思うが、現行の小学1年生の図工としては、有りなのかどうかと思ってしまう。」

上述したように,本授業提案は,目の前で行われる子どもたちの造形活動から,子どもたちがどのような「楽しさ(やってみたい)」を味わっているのかを,我々が捉えることを目的にしていたので,「小学校としての」「図工としての」「授業としての」事前説明は,あえて行わなかった。ただ,我々の説明が不足していてその意図が伝わっていなかったことを反省しなければならない。


参観者

「先生の意図はわかったが、せっかく参加してくれたこどもが泣いていたのは、つらかった。意図のために、子どもが犠牲になっていた。あれだけ、何も指示せずやらせるなら、もう1人サポート役が必要と思った。」

このように受け取る心持ちに対して,敬意を表したい。教師・授業者として,子どもに対するホスピタリティを持つことは必須だからである。
いっぽうで,こうしたネガティブな場面をどう捉えるかに,我々の子ども観や授業観,さらには教育観が表れていると思う。このことは,今回の授業提案において極めて重要な命題なので,引き続き,次のご質問もふまえながら考えていこう。


参観者

「話合いでも出されていた『ネガティブサインを出していた子』への対応が気になりました。普段の関係性がないからこそ、声をかけてあげるべきでは、寄り添ってあげるべきではと思いました。周りにたくさん人がいるいつもと違う環境で動けない子を見ていて、私はわが息子の姿を重ねて辛かったです。(大学で幼児教育を学ぶ娘は、『その子への対応が不誠実で、その後の先生の話から自分の理想を押し付けていると感じ、悲しかった。』と言っていました。)」

先ほどのご感想と同様,子どもに対する「優しさ」に頭が下がります。
その上で「保育・授業とは何であろうか?」,そして「保育・授業で保育士・教師がすべきことは何であろうか?」について考えてみたい。教師・保育士が「何かをする」,さらには「すべき」という考えは,教師が主語であり,上述した「優しさ」も含めて,実は教師の論理が位置付いている。

忘れがたいこんなエピソードがある。
教育の初学者である学部一年生を連れて,ある中学校美術科の授業を参観した時のことである。その授業者であるF教諭は生活指導主任で,一見すると「生徒に恐れられている」存在であった(実際,風貌も怖かった)。授業中の生徒に対する指導も容赦ないものであり,一人一人の生徒,そして学級全体に対しても,常に強い「叱咤」と「要求」を伝えていた。ところが休み時間になると,生徒たちはそのF教諭の周りに集まり,親密に話しかけている様子が見られたのである。
こうした光景を見た学生たちは,そのF教諭と生徒たちとの間にある信頼関係がどのように構築されたのか,不思議に思ったようであった。
そうして授業後の質疑応答において,次のような質問をした。
「先生は生徒に厳しく接しているが,生徒との間には信頼関係があるように見える。どのようにして,その信頼関係を構築したのか?」
その質問に対して,F教諭の回答は次の一言だけであった。
「私は,信頼関係をつくるために授業をしているわけじゃないし,教師をやっているわけでもありません。」

みなさんは,このエピソードを,どのように受け止めるであろうか?

学生たちがポカンとしていたので,すかさず私は先ほどの回答の真意をF教諭に問うた。するとF教諭は,「子どもが育つこと」が大事なのだと語った。普通に聞くと当たり前のように聞こえるが,極めて重い一言である。つまり,学生たちが重要だと捉えた「信頼関係」とは,生徒が育つための「手段」でしかなかったのである(もちろん,子どもとの信頼関係を構築すること自体が目的になる場面もある)。
果たしてF教諭は,子どもに理想を押し付ける「優しくない」教師であろうか?
むしろ,生徒にどのように思われようとも,子どもを育てようとする信念(授業観,教育観)がそこにはある。実は,F教諭の信念は,子どもが主語になっているのだ。

以上のエピソードは,相手が中学生だから言えるのでは,という人もいるかもしれない。だが,子どもを育てるという信念は,子どものどの発達の段階にも通底するものがあると考える。
現在,育てるべき資質・能力として,「学びに向かう力,人間性」が位置付いている。この資質・能力に対応する評価の観点は,「主体的に学習に取り組む態度」であり,その態度には,「粘り強い取組を行おうとしている側面」と「自らの学習を調整しようとする側面」の二面があることは周知の通りである。この「主体的に学習に取り組む態度」は,図工の学習が成立するための前提(もちろん他教科も)であることは,読者のみなさんは否定しないだろう。

これらのうちの「自己調整」とは,自分で学習目標(「やってみたい」)を立て,学習の状況を自分で把握し,学習の進め方について試行錯誤する(失敗やトラブルと向き合う)など,自らの学習を調整する力である。
つまり,子ども自らが学習の主体者となり,失敗や困難を乗り越えることが目指されているのである。

生成AIやICTをはじめとする現代的な環境は,子どもたちにとって便利で役立つ環境を見事に整えつつある。しかしながら,それに依存し切ってしまうことで,「主体的に学習に取り組む態度」は弱体化してゆく可能性がある。現に,これからの社会を生きていく子どもたちに必要な能力として「レジリエンス」(困難な問題,危機的な状況,ストレスに対するしなやかさや耐性)が挙げられている。

授業において,我々教師が,こうした学びの機会を奪っているのだとしたら?

「子どもが育つ」ということについて,今一度,授業から,そして子どもの姿から考えてみる必要があるのではなかろうか。

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