東京学芸大学附属竹早小学校 桐山卓也
先日の9月18日の月例研では,僭越ながら実践発表をさせていただきましてありがとうございました。拙い実践ではありますが,短い発表時間でありましたのでなかなか思うようにお伝えすることができませんでした。ですので,このブログをお借りして少し補足をさせていただきたいと思います。先日の話の中で,私が図工の授業をつくる上で大切にしていることを3つ挙げたと思います。「創造性とは」「教師の役割とは」「主体的であるとは」の中の「教師の役割」の中で話した「大人と子供の価値観の違い」について,最近とても強く感じていることをもう少し付け足したいと思います。
私も以前は,例えば絵画においても所謂「上手に描ける」ことが良い指導だと思っていました。絵画に積極的に取り組めない子は,よく「絵心がない」と言っています。上手に描けるようになれば,その子にも自信がついてどんどん絵を描くことに取り組むことができると,私の指導も見た目が良いような方向に向いていた時代がありました。
そんな時,低学年の授業で自分の顔を描くことがありました。私は,低学年でもこんなに描けるんだぞと意気込んで,より写実的に描く指導をしました。どの子供もそれなりに描き込めて結構似せて描くことができたのですが,一人の女の子が「私の顔はこんなんじゃない。」と泣き出したのです。覗き込むと,結構本人に似ていて写実的によく描けているのです。しかし,その女の子は,リアルに鼻の穴があったり唇があったりすることにとても不快感を感じていたのです。私の観点からは,とてもよく描けているのですが,その女の子にとってはとても醜い顔に感じられていたのです。
私の価値観で子供の作品をより良いものに引き上げてあげようと思っていたのですが,その女の子の価値観は別のところにあったようなのです。後日,その女の子が自分の顔だと言って喜んで描いていたのは,鼻の穴のない唇のない可愛いマンガチックな自分の顔でした。このような例が適切で,皆さんに私の感じたことがうまく伝わっていないとは思いますが,大人の価値観と子供の価値観の違いについて,今私はとても痛切なる違いがあると思っています。絵心がないと言っている子供の絵心というものを決定しているのが我々教師であり大人であり,その子が本来持っていた絵心を書き換えてしまっているのではないかと不安に思っています。ですので,私は「子供の活動を価値づけてあげる」「活動から学びを示してあげる」ということに教師の役割の重きをおいて考えるようになりました。
恐らく私のような考えも,小学校も高学年になり中学に行って自我が目覚めていく頃には当てはまらないのかと思います。でも,私はこれからの子供達の創造的な造形活動にはこうした視点が必要なのではないかと考えています。