日常 造形論

考え方で変わる評価

大泉義一(早稲田大学)

評価って難しいとよく聞きます(反対に,評価って楽しいとはあまり聞きません)。

 確かに,評価は難しい。だけど,それだけみなさんが誠実に考えているということでもあります。

そんな難しい評価だけれども,私たち教師は常に日々行っていることでもあります。ですから私たちは,どうしても「どのように評価すればよいか?」に目が行きがちです。そうすると,ペーパーテストもなく学習が刻一刻変化する図工の評価は,とりわけ悩ましい…。

 本稿では,いったんその負のループから離れて,評価の「考え方」について,5つのトピックから考えてみたいと思います。

① 評価と評定

「評価」と聞くと,どうしても混同されがちなのが「評定」です。「営業成績」のように,棒グラフで表される,量的で相対的な物差しによる「評定」。ここで忘れてはいけないのは,私たち教師は「なぜ評価するのか?」ということ。その答えは,他でもない「子どもを育てるため」です。だから,その評価で果たして子どもが育つのか?つまり「育てるための評価」という考え方を持ちたいところです。

② 指導と評価

 先のブログで,中條さんが「指導と評価はいつもセットで」とおっしゃっています。評価は指導をしないとできません。育てたい資質・能力のために指導があり,その指導によって子どもがどのように育ったのか(上記),という観点から評価するということです。

また,極端に言うならば,私たち教師が子どもと関わっていること自体がすでに評価(活動)です。子どもにかける声かけや,子どもに対する態度,さらには仕草も評価に含まれます。言語学者のマジョリー・F・ヴァーガスという人は,人のコミュニケーションのうち,7割が非言語コミュニケーション(表情,視線,身振り・手振り,姿勢,相手との物理的な距離の置き方など)によるものだとしています。さらにそのうち,発話者の声の調子やイントネーション,早さ,アクセントといった周辺言語(パラランゲージ)からは,受け手が発話者の気質,特に「熱心か無気力か?」を評価しているのだそうです。何か恐ろしいですけど,子どもたちにとって一番大事な評価ってここにあるのかもしれません。

③ 妥当性と信頼性

 ご存じの通り,現在の評価で大事にされているのは,「妥当性と信頼性」であって「客観性」ではありません。この「妥当性」とは,「目標と準拠していること」を指しています。つまり,「指導と評価はセット」(上記)です。「信頼性」とは,子どもが教師のその評価を信頼するかどうか,ですから,子どもと教師の関係(上記)によってもたらされるものです。

④ 「A」「B」「C」はどうするの?

 で「評定」でなく「育てる評価」であると言いましたが,それでも「A」「B」「C」を付ける必要があります。そのことに関して,以前関わっていた小学校の先生方と共有した面白い「考え方」は,以下の通りです。

「B」を付けるのは:『当たり前』

「C」を付けざるを得ないなら:『ごめんね』あるいは『本当にそうなのかな』

「A」を付けるときは:『ありがとう』

 「B」は,その授業での学習状況の「規準」ですから,そもそも「B」を付けることができるように授業をつくる,あるいは指導することが求められます(上記)。ですから,「C」を付けざるを得ない場合は,即刻その子に指導を行うか,自らの指導の改善を図らなければなりません。あるいは,「C」であるとその子を捉えている自分の「見とり」の解釈を疑う必要もあります(自分の評価観を疑う。特に「主体的に学習に取り組む態度」)。「A」と判断できる状況に出あえた時は,授業者として最高に幸せなので,それをもたらしてくれた子どもに感謝したいですよね。

⑤ 子どもの再発見

 評価には,子どもの学びの姿を捉えること,つまりは「見とり」が必要です。でもこの「見とり」が必ずしも正しく子どもを捉えていない場合もあるでしょう(上記)。ですから,「見とり」には,次の二相があると考えることが必要です。

 α:指導改善のための見とり

β:子どもの再発見のための見とり

 αの「見とり」は,教師が授業や指導を改善するために行います。これは,育てたい資質・能力と題材の関係,材料や用具の種類や量,学習環境の効果など,指導の有効性を検討するために行われる,いわば目的的な「見とり」です。研修と称した授業研究や研究授業の機会において多く行われています。

 一方,βの「見とり」は,教師同士が子どもの学びに対する自身の解釈を開陳し合い交流することで,授業や子どもの学びの可能性について考えあうために行います。この「見とり」には,他者との「関わり」が絶対に必要です。なぜならば,一つの授業をめぐる解釈と考察は多様なひろがりを見せるからです。鹿毛雅治によれば,「(授業の)同じ場面を見ていても,特定の出来事が『見える人』と『見えない人』とに分かれる。そこでは五感を通じた『アンテナの感度』が参観者に要求される」そうです。「子どもの再発見」のための「見とり」の交流においては,まさにこの「アンテナの感度」を教師同士で高めあう交流がなされるのです。

 こうした「見とり」の二相をふまえて,①,②,③,④で述べてきたように,評価を考えることが必要なのではないでしょうか。

以上,「どのように評価すればよいか?」よりも先に,評価に対する「考え方」を変えてみることから始めてみるのはいかがでしょうか?

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